パーツメーカー

日本国内のみならず、世界各国に多数存在するカスタムパーツメーカー。各社はそれぞれの理念に基づき、多様な製品を日々開発している。当コーナーは、そんなパーツメーカーの思いや歴史、舞台裏などに迫る。

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アメリカ一周がその後の人生を決める

ビトーR&Dの創業者である美藤 定氏は、「世界を知りたい」と24歳のときにZ2とともに渡米し、アメリカを旅する。その旅の途中で、偶然ノースハリウッドにあったヨシムラのファクトリーを訪れ、そのままアルバイトをするようになる。これが美藤氏とヨシムラとの出会いであり、美藤氏はそのままヨシムラでレーシングメカニック、チューナーとしての修業を始めることになる。この後、ホンダにスカウトされ、1982年にはWGPに参戦するホンダでNS500のメカニックとして活躍。83年に出身地でもある兵庫県豊岡市にビトーR&Dを設立する。

Z2で北米大陸一周の旅のワンシーン
美藤氏は沖縄でベトナム戦争に出兵する米兵と出会い、話をするうちに「もっと世界を見てみたい」という衝動に駆られ、24歳のときにZ2で北米大陸一周の旅を敢行。この旅が運命的な出会いをもたらす

ビトーR&Dはエンジンチューニングやレーシングパーツの開発などを主な業務としていたが、設立直後はエンジンをチューニングすることはごく一部で、仕事は多くなかったという。

そんなときにイタリアの友人に誘われて冬場にイタリアでメカニック教室を開き、エンジンチューニングも教えていたという。この教室は盛況だったそうだが、生徒からは「チューニングは教えてもらったが、部品がない」と言われたこともあり、ビトーR&Dで部品を作っては、それをイタリアに送っていた。これが現在のビトーR&Dへとつながっていくことになる。

「当時は国内でもチューニングに必要な部品が流通していませんでしたから、ケーヒンやコスワース、カンパニオーロの代理店として部品の取り扱いを始めたのです。とくにエンジンのチューニングではマフラーやキャブレターがないと話になりません。そのため、マフラーは当社で製作して、キャブレターはケーヒンの取り扱いを始めました。また、日本でも雑誌の企画でレーシングメカニック講座を連載していましたが、それがバイクショップのメカニックに好評で、国内からも注文が入るようになりました」

マグ鍛から“ボルトオン”が定着

同社は1986年からイタリアのテクノマグネシオの鋳造マグネシウムホイールを取り扱うようになる。ただ、問題も多かった。

「当時の鋳造マグネシウムホイールは製造工程で内部に空気が入って、スができてしまうなど歩留まりが悪く、なかなか商品が入ってこなかったんです。そんなことを繰り返していたときに、日本で1995年くらいから自社で開発できないかと考えるようになったのですが、鋳造ではやはり難しい。そこで鍛造で作れないかと模索していました。そして鍛造の技術も進化して99年ごろには商品化が可能になったのです。そうして鍛造マグネシウムホイールのマグ鍛を開発し、販売を開始しました」

レースの世界でも鍛造マグネシウムホイールは当時はめずらしく、カワサキやスズキが相次いでワークスマシンに採用するなど、レース界でマグ鍛は一気に人気となり、一般ライダーのカスタムシーンにおいてもマグ鍛は人気となる。

積極的にレースをサポート

マグ鍛の特徴はそれまでの鋳造マグネシウムホイールをしのぐ軽さと剛性の高さ、そして品質のよさであり、そこに真っ先に注目したのはカワサキだった。JSB1000用など、スーパーバイク用でまずは採用して高評価を得ると、MotoGPマシンにも採用され、マグ鍛はレース界から注目を集めるようになり、カワサキに続いてスズキもファクトリーチームで採用する。

「それまでは鋳造マグネシウムホイールもカスタムで使おうとするとカラーなどを作らなければ装着できませんでした。それをマグ鍛ではストリート用としてボルトオンで装着できるように車種専用設計にしたことで、注目を集めるようになったのです。そしてホイールを交換するとタイヤのサイズが変わりますし、それに合わせてサスペンションも変更したり、調整したりする必要が出てきます。そうなるとステムブラケットも必要になる。そうやって、今の商品ラインナップに広がっていったのです」

現在はボルトオンで装着できるアフターパーツが多いが、マグ鍛の登場は今につながる車種専用設計という概念をカスタムシーンに持ち込み、ボルトオンパーツを普及させた立役者であるようにも思われる。現代のカスタムシーンにおいて、同社がはたしてきた役割は大きいといえるだろう。

取材協力ビトーR&D
TEL0796-27-0429
URLhttp://www.jb-power.co.jp


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